コンテンツとコスト感覚
もともと、レコード、CD、レーザーディスク、ビデオ、書籍、マンガ、新聞、雑誌は、その「物質」としての存在感も含め、「商品」として「買う」という行為が普通でした。
現在、そのような「物質だった商品」が「データ」という形に変化してきています。この「データ」という「目に見えない、よくわからない存在」に「使用料」とか「課金」とかいうものを払うのが、「私の感覚」と合わないのかもしれません。
若いころ、喫茶店で「マンガ」を読むのが好きでした。コーヒーが好きで、そのお店の空間が好きで、そこで流される「ジャズ」が好きで、「お金がなくて買えない」マンガを読む。そのコーヒーの料金には、当然マンガ代やお店の「雰囲気のためのコスト」も含まれているのですが、「コーヒー」にお金を払っているという感覚だけを、持っていたように思います。
図書館もそうです。我々、通勤者が「税金」として払っている「コスト」で運営されているのでしょうが、利用するときに「無料」だと感じています。
この「無料」なものが、周りに多くあるのに「データ」という形のない状態の「コンテンツ」にお金を支払うことが、どうも「年齢」のせいか、しっくりきません。
iPodや着メロのおかげで、音楽データは「お金のかかるもの」と認知されました。
若いころを思い出せば、欲しいレコードのためにバイトして、やっと手に入れたそれを今でも大事に持っています。
でも、簡単に手に入る「データ」は、いつかハードディスクのクラッシュでなくなる運命なのかな?なんて考えます。そして、思い入れのなさと「流行」に流されて、記憶の向こう側に・・・
テレビ(民放)の世界は、以前も書きましたが「コマーシャル」で成り立ちます。このコマーシャルというシステムは、ほんとうによく考えられたビジネスモデルです。「無料」という幻覚を植えつけた「魔法の集金システム」です。(放送局の既得権とかの問題はありますが・・・)
私自身、今の「コンテンツ課金」というシステムが今後も広がることに「違和感」を感じます。便利と引き換えにするのは、「格差」と「本質的価値の消失」のような気がします。
中学、高校のころお金のない私は、友達から多くのレコードを借りてそれを聞いていました。多くの貸し借りから、社会性を身につけたような気もします。その中でも「自分の買ったもの」にはすごく思い入れがありました。
行き過ぎた著作権保護というシステムは、そのような「貸し借り」を排除し、個人の権利のみで判断し、「コンテンツ=データ&権利」という図式で、「文化・芸術」という大事なものを忘れてしまいそうな気がします。
ちょっと年齢高い方なら、この感覚理解していただけるのでは?
お金を払うことが「イヤ」だと思っているわけではありません。払わなくてもいいものも多くあると思っているだけです。
なんでもかんでも「権利」の主張をするのは、なにか気分に合わないだけです。
権利を主張する方は、いつも「制作者=多くの人に見てもらいたい表現者」でなく、
お金勘定の好きなだけの「なんでも権利主義者」のような気がするのです。
そして、制作者にはお金が回ってこない…そんな実情がいたるところであるように思います。
追記:今日は、愚痴です。
著作権とか権利とか言う方が、ここ数日間にお話した方に多く、通勤ドットコムに懐疑的な意見を多く聞きました。
その方々へのある意味での反論です。
通勤ドットコムは、著作権法の「私的利用の範囲内」の考えを十分理解しているつもりです。
もし、このソフトが「問題」ならば、VTRやMDや記録媒体をもつほとんどのものが「問題」だと考えます。
頭のいい人は、「悪用」する方法ばかり考える。
有意義な通勤時間なんて関係ないみたい。
もう、いろんなこと話すのやめよなかな― それは、世捨て人への道かも?
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